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『自然界には色も音もないことに気がついてもらいたい。その種のものは
 何もないのだ。肌理も、模様も、美も、香りも』

     ジョン・エクルス(John Eccles)
       (オーストラリア神経生理学者:ノーベル生理学賞)

『原子物理学にあっては、最終的にいかなる「物」をも見つけだすことは
 なく、つねに相互作用をもって終わるのみである。』

     フリッチョフ・カプラ(Fritjof Capra)
       (カリフォルニア大学物理学教授:「物理学のタオ」より)

 冒頭に、ジョン・エクルスとフリッチョフ・カプラの言葉をご紹介させていただいた理由は、私共が取り組む「非物性テクノロジーの世界」をご理解いただくには、これらの言葉が意味する自然観、世界観をよく理解していただくことが必要で、従来の自然観、世界観に囚われたままの考え方からでは、おそらくこの技術は理解していただけないだろうとの思いからです。少し長く、少々込み入った話になりますが、しばらくご辛抱いただき、是非、「非物性テクノロジーの世界」を覗いていただければと存じます。




ジョン・エクルス(John Eccles)
 まず初めに、ジョン・エクルス『自然界には色も音もないことに気がついてもらいたい。その種のものは何もないのだ。肌理も、模様も、美も、香りも』との言葉について考えてみたいと思います。
 この言葉は、私たちが持つ自然観、世界観の在り方について、とても重要な示唆を与えてくれます。私たちは、私たちの五官(五感)を手がかりに、この自然界を認知しているのですが、その五官(五感)の機能を詳細に見ていくと、私たちが何の疑いも無く、当然のように存在していると考えていたこの自然界は、実は、私たちの感覚機能で感知した信号に基づいて、私たちの脳内に造られた内なる自然、内なる世界であって、決して本来の自然界そのままの姿ではないということなのです。
 私たちは、私たちに見えているこの世界がそのままの姿で存在し、それを鏡に映すがごとくに見ていると、何の疑いも無く考えているのですが、私たちの視覚機能について改めて見つめ直してみると、決してそうではないことに気付かされることになります。

私たちの視覚機能は、「可視光線と言われる領域の電磁波が、その受容器としての錐体細胞、カン体細胞を刺激、発生した電気信号が視神経細胞を通じて大脳皮質に伝える機能」であり、その伝えられた電気信号に基づいて、脳内でこの世界像を造り出しているの

非物性秩序の世界(イメージ)
であって、決して鏡のごとく周囲の景色を映し出しているのではありません。
 電磁波そのものには色が有りません。ある特定の周波数の電磁波の刺激が電気信号となって脳に伝わり、「赤色」と認識されるのであって、赤い電磁波があるのではありません。エクルスはこれを言っているのです。色は私たちの頭(認識)の中で生れるのであって、本来の自然界に色は無いのです。
 音も同じです。小鳥のさえずりや小川のせせらぎ、ピアノや琴の調べも本来の自然界には在りません。周波数の違う空気の振動があるだけです。色や音は私たちの頭(認識)の中で生まれているのであって、本来の自然界に音は無いのです。(私は私たちの心の中と言いたいのですが、これを言いだすと、テーマから逸れていきますのでこのままで。)

 触覚や嗅覚や味覚も同じです。私たちは私たちの感覚機能で捉えた刺激を電気信号に変え、それを基に大脳皮質でこの自然像、世界像を造り上げているのであって、本来の自然の姿をそのまま見たり、感じたりしているのではないのです。

 もう少し詳しく視覚機能に触れますと、私たちの視覚機能が捉える(見る)ことのできる電磁波は、無限に存在する電磁波の中のごく一部、可視光線(405〜790THz)と言われる領域の電磁波だけで、それ以外の電磁波は、たとえ存在していても見ることができません。

 私たちはその限られた範囲の電磁波を視覚機能で捉え、電気信号に変換、その電気信号に基づき、脳内でこの自然像、世界像を造り上げています。何度も言うように、私たちが見ているこの世界が、そのままの姿で私たちの外に存在しているのではありません。赤いバラの花がそこにあるのではなく、私たちが、脳内で赤いバラの花の像を造るきっかけとなる周波数の電磁波を反射する何らかの秩序があるだけなのです。

 犬や、猫や、鳥や、魚や、虫にとって、赤いバラの花はありません。何か全く別の物に見えているはずです。生物の種の違いによって、捉えることのできる電磁波の領域や変換機能に違いがあり、残念ながら、直接尋ねることはできませんが、私たちとは全く違った世界が見えているはずです。

 私たちには私たちの目に見える自然界があるように、犬には犬の、猫には猫の、虫には虫の、鳥には鳥の自然界があります。誰(?)が見ている自然界が正しくて、誰が間違っているという訳ではありません。誰にとってもそれが現実の自然界なのです。もちろんこれは他の感覚機能についても同様のことが言えます。

「では、私たちを含め私たち生物が、それぞれの感覚機能に基づいて認知する以前の世界とは、一体、どうなっているのでしょうか?私たちが、私たちの視覚機能に基づいて認知する以前の自然界の姿とは、一体、どんな姿をしているのでしょうか?」



フリッチョフ・カプラ(Fritjof Capra)
 ここでいま一つ、冒頭でご紹介したフリッチョフ・カプラの言葉を、もう少し長くご紹介したいと思います。
 『原子レベルにおいては、古典物理学でいう堅固な物質的対象は確率の波動的パターンのなかへと溶けこんでいく。そればかりではない。これらのパターンは、事物の存在の確率をあらわさずして、事物間の相互作用の確率をあらわすのである。
 原子物理学における観測のプロセスを注意深く分析すると、素粒子そのものは孤立した実体としての意味はまったく存在せず、実験準備とこれにつづく測定との間の相互作用としてのみ理解されうるのみである。素粒子の群は「物」ではなく物と物とのあいだの相互作用であり、またこれらの物質群は他の物質群どうしの相互作用であり……以下同様というふうにして解されうる。原子物理学にあっては、最終的にいかなる「物」をも見つけだすことはなく、つねに相互作用をもって終わるのみである。』


 「如何でしょうか?」


 このカプラの言葉の中に、先程の「私たちの感覚機能に基づいて認知する以前の自然界が、どんな姿をしているのか」との疑問についての答えが語られていることにお気づきいただけたでしょうか。

 カプラは『原子レベルにおいては、古典物理学でいう堅固な物質的対象は確率の波動的パターンのなかへと溶けこんでいく。』として、究極的には「古典物理学でいう堅固な物質的対象」つまり「物質」なるものは存在しない。そして『原子物理学にあっては、最終的にいかなる「物」をも見つけだすことはなく、つねに相互作用をもって終わるのみである。』として、すべては相互作用の結果であると言っているのです。

 「物質」が存在しないのですから、当然のことながら、エクルスの言うように「色も、音も、肌理も、模様も、美も、香りも」ありません。それだけでなく、「物」が存在しないと言うのですから、物と物との間の「空間」も存在しないことになります。そして「空間」が存在しないのですから、「空間を伝わる」、「空間を移動する」という現象も無く、当然のことながら「時間」も無い世界ということになります。

 「物質」も「空間」も「時間」も無い世界などと言うと、そんな馬鹿なことがと言われそうですが、カプラの言葉通りに考えを進めていくと、そうなってしまうのですから仕方がありません。

 ただこれも、人の認知機能を前提に考えると、それほど不思議なことにはなりません。先程も述べましたように、私たちが私たちの五官(五感)で捉えた信号をもとに造り出した世界の中においてこそ、「物質」や「空間」や「時間」があるのであって、五官(五感)で捉える以前の本来の自然界おいては、「物質」や「空間」や「時間」の存在は考えようがないのです。脳内で造り上げた「自然界」や「物質」なるものが、そのまま私たちの外に厳然と存在しているのではないのですから。
 では、本来の自然界はどうなっているのかということになりますが、それはカプラが言う、物ではないもの(物理学の世界では「非局在性」という言葉を使うようですが、私たちはこれを、物ではない秩序あるとして「非物性

ボームの量子論(ペンネローズのねじれた四次元より)

秩序」と呼んでいます。)相互作用の世界であり、非物性秩序と非
物性秩序が無限に織りなす相互作用の世界が、本来の自界の姿なのです。
 



人の認知機能という観点から物理学を見直すと、カプラの言う古典物理学とは、認知機能により造り出された自然界を対象とした物理学のことであり、原子物理学とは、私たちの認知機能で捉える以前の本来の自然を対象とした物理学であると言えます。
 物理学に神経生理学の観点を持ち込むことに違和感を持たれる方が多いかとは思いますが、これもよくよく考えてみれば、何もおかしいことではありません。私たちは何をするにも、何を考えるにも、人という種としての認知機能から離れることはできないのです。そしてその範囲内でしか自然界やその現象を認知できず、それをもとに思考することしかできないのです。
 科学は科学の客観性を確保しようとして、個々人の主観から離れることはできても、決して、人という種としての主観からは自由にはなれないのです。
 物理学の世界では、古典物理学をマクロの世界の物理学、原子物理学をミクロの世界の物理学というように分けて考えているようですが、本来の意味からいえば、古典物理学を「認知後の自然界の現象を対象とする物理学」、原子物理学を「認知前の自然界の現象を対象とする物理学」とに分けて取り扱ってはどうかと考えています。

 空があり、星があり、海があり、山があり、鳥が飛び、魚が泳ぎ、私たちがいる。今、私たちに見えているこの自然界は、私たちの認知機能が造りだした世界像であり、私たちが認知する以前の本来の自然界の姿は、「物質」も「空間」も「時間」も無い、無限に織りなす非物性秩序の相互作用の世界なのです。




私たちが現実と認識する認知後の世界のことを「顕在現象の世界」、私たちが認知する以前の、自然界の本来の姿である無限に織りなす非物性秩序の相互作用の世界のことを「潜在現象の世界」として考えていただくと理解して頂きやすいかもしれません。私たちが直接、見ることも、聞くことも、味わうことも、触れることも、嗅ぐこともできない世界という意味では、「潜在現象の世界」という言葉は実にぴったりと来ます。
 ただ「顕在世界」と「潜在世界」と分けてはいても、全く別の世界が二つあるというのではありません。私たち人間の認知機能という観点から見ると、「顕在世界」と「潜在世界」に分かれると言うだけのことであって、世界は一つです。イメージとしてつかんで頂きやすくするために図にすると、以下のような図になるかと思います。

(顕在現象の世界と潜在現象の世界)
 私たちが現実と認識するあらゆる存在や現象(=顕在現象)の背景には、その背景となる非物性秩序の相互作用(=潜在現象)があります。私たちが空、海、星、宇宙、分子、原子、電子、素粒子、体、臓器、細胞、遺伝子、病気、症状、鳥、魚、犬、猫、パソコン、テレビ、家、自動車と認識する全てのものに、その背景となる非物性秩序の相互作用(=潜在現象)があります。私たちは潜在現象の世界の法則(非物性秩序の相互作用)に基づいて起こる現象の結果を、私たちの頭で顕在現象として認知していると言えるのです。




 私共が取り組む「非物性テクノロジーの世界」をご理解いただくには、「本来の自然界の姿」をよくご理解いただく必要があり、この長いご案内となってしまいました。「本来の自然界の姿」に気が付かないまま、「非物性テクノロジーの世界」を覗いていただいても、出てくる言葉は「そんな馬鹿なことがあるはずがない。」でしかなく、きっと何も解らないままに終わってしまうことになると思います。

 長いご案内になってしまいましたが、今一度。

 本来の自然界の姿は、『無限に織りなす非物性秩序の相互作用の世界』であり、『あらゆる現象は非物性秩序の相互作用の結果である』のです。





PRA装置理解のために





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